中華義荘の成り立ち

 横浜開港後、中国人を含む各国の亡骸は山手の外国人墓地に埋葬されて来ました。その内、中国人埋葬者の増加などにより、明治6年(1873年)に、現在の中区大芝台、(当時久良岐郡根岸村字大尻と称す)に国有地を貸与されて中国人専用の区画を持つというのが始まりで中華義荘がつくられます。元々、中華義荘は、故郷中国へ棺を送還するまでの仮埋葬の場でありましたが、時代とともに永眠する場所へと変わっていきました。

 大正時代になると、横浜生まれの華僑も増えて、故郷が横浜である人にとっては、ここが永眠の場所となり、帰葬という本国に帰すという習慣が徐々に廃れ、かわりに墓地が造られてきました。

 当初、墓地の維持資金は、維持費を集めるという形ではなくて、中華会館が主体となって寄進を募り維持してきました。1980年代より中華会館が横浜市のパックアップで周囲の急傾斜地擁壁工事を行い、あわせて中華義荘墓地の整備を始め、同時に墓地使用者から管理費をいただくこととなりました。中華会館が2009年隣接国有地の売払いを受け駐車場として整備、更には墓地敷地全体を国から売払いを受け自己所有地とした。法改正により、2012年からは中華会館公益部門が公益財団法人中華義荘として分離し管理しています。

 墓地には、地蔵王廟(横浜市の有形文化財)、3階建の安骨堂(納骨堂)があります。現在の休憩所は建築後50年が過ぎ老朽化のため、2021年竣工を目処に駐車場敷地に新たな休憩所を建設する計画を2017年11月の中華会館発表した。

地蔵王廟

規模:木骨煉瓦造 建築面積192.1m2(中庭含む)
年代:清時代(光緒18年・1892年)
横浜市指定有形文化財 指定 平成2年11月1日


安政5年の五カ国通商条約によって開港された横浜に、居留地を中心として外国人が生活するようになったが、外国人のための墓地もこうした中で設けられた。中国人の墓地も初めは山手の外国人墓地にあったようであるが、明治6年、現在地大芝台に移された。当初横浜で生活していた中国人の商人などの醵金により、明治25年、中国人墓地(中華義荘)に建てられたのが、この地蔵王廟である。
建築年代は廟内の碑文などから、光緒18年(1892年)でることが明らかである。
この地蔵王廟の建築は広東省とのつながりが強いことが推察されるが、この平面計画は、中庭を中心に建物を前後に並んで取り囲む南方特有の形式で、広東省や台湾の廟建築に多く見られる。建物は八架、七架、四架の母屋桁を化粧とし、巻棚の天井を正庁の前廊や側廊に取り入れるなど華南特有の空間を造っている。桁や梁を受ける軸部は、土台に柱、間柱を建て、外側には斜材を等間隔に打ちつけ、内側には木摺を打ち、外壁をレンガ半枚積、内壁に石炭モルタルを塗って大壁で仕上げてある。外壁の半枚積みのレンガ壁は壁体が弱いので、螞蝗攀と云うヒルが登っていくように、鉄板で所々を柱に止めている。屋根瓦は関東大震災後葺き直したが、当初は横浜で焼かれていたジェラール瓦であったことが明らかとなった。

地蔵王菩薩

時代:清時代(光緒18年・1892年)
技法:脱活乾漆造、漆箔
寸法:像高83.7cm
横浜市指定有形文化財 指定 平成6年11月1日


地蔵王廟正庁正堂の壇上厨子内に本尊として安置されており、光緒18年(1892年)に落成した地蔵王廟と同時期の造立と思われる。制作当時の風俗が取り入れられ、中国清朝官人風の帽子を戴いている。中国の明代以降の乾漆造像遺品として知られるものは極めて少なく、清代末期の乾漆造像として貴重である。

清明節

清明節の起源は、漢の時代(紀元前202年~220年)からはじまったといわれています。 清明節には、「寒食節」といい、一切火を使わず冷たい飯を食すという風習を行っていたなど、各地にあらゆる伝説が存在するほど、果てしなく長い歴史があります。
現在では、「清明」とは中国の二十四節気の一つです。 中国の二十四節気とは、1年を24等分したもので、日本でいうと春分の15日後が清明です。
「清明」は春風が吹き、草木は芽生え、明るく生命力の溢れる清らかな季節なので、「清明」と名が付いたと云われています。
そして中国では故人の魂は土の下に住んでいると思われています。
清明のあとは雨がよく降る季節になるので、暖かい季節のうちに、お墓をきれいにして土をしっかりと盛り、祖先を偲ぶようになったということです。

今年の清明節
恒例の本会主催清明読経供養式は4月5日午前11時に開催します。中華街の本会事務所前から墓参シャトルバスを運行します。中華義荘駐車場は当日混雑しますので、皆様にはシャトルバスのご利用をお願いいたします。
中華バス 時刻表