中華会館とは
横浜の中華会館は2017年11月、成立150周年を迎えたこの地における最古の公益団体である。当初、日本側は「清国人会議所」西洋側は「Chinese Guild-hall」とされ、在住華僑の対外折衝の窓口と位置づけられた。
1858年の横浜開港と同時に中国大陸東南部沿岸より先進たちがこの地に足を踏み入れ、開国した日本人と来日した西洋人との間の取り持ちとなって活躍し、数年もしないうちに華僑コミュニティとして形成してきた。
19世紀当時、海外に進出する華僑の関心事の一つに、死後自分の屍の行く末にあった。中華義荘は仮の墓地として設置され、また棺を故郷に送り返す帰葬(運棺システム)が香港の東華医院等がハブになって運営を始め、太平洋沿岸各地の中華会館がその第一線となって在住華僑の世話を行なった。
横浜においては開港当時、清国と日本の国交は未だ無く、明治初期1871年9月「日清修好条規」締結し、更に1878年清国駐横浜領事館が業務を開始するまで、横浜の中華会館が準公的機関として役目を果たした。中華会館の業務として挙げられていた「僑務」(華僑管理)、「医務」(病院経営)、「商務」(商業公議調停)、「教務」(華僑学校経営)、「慈務」(中華義荘と関帝廟運営)、「外務」(中日渉外機能)などは正に華僑が『揺りかごから墓場まで』この地での生活に関わる事柄全般を在住の華僑が自主的にこなして来たのであった。
1903年(明治36年)12月に「法律、衛生、道義思想の普及発達を図り実行のため」を目的に財団法人登記を行った。
横浜の華僑は1923年関東大震災そして1945年横浜大空襲で二度に渡る壊滅的損害を蒙ったが、その都度よみがえり、現在、世界で最も繁栄しているチャイナタウンを築き上げてきた。それはここヨコハマを故郷とした「郷土愛」が生み出した賜物であった。
戦後、横濱華僑總會が中華民国政府の政策により組織されると、中華会館は業務全体を総会に委託し、一度は「休眠状態」となっていたが、中華義荘の整備事業などの必要から回復登記を行い業務の再開をはたした。
2012年法改正により、中華会館の業務は収益事業と公益事業の二分割され、公益事業の墓地管理運営には公益財団法人中華義荘を設立・継承した。中華会館は引き続き不動産の管理賃貸を行なっており、今後もこの地に暮らす華僑華人の文化教育の振興など公益に資する事業を継続するため邁進する所存であります。